スポーツマンシップ
オリンピックが始まり、最近は寝不足の日が続いているのではと皆様の健康を心配します。
ウィキペディアには「スポーツマンシップは、スポーツのルールを遵守してゲーム(競技)を行っていくうえでの根本的な姿勢をいうものである。広義では、スポーツを行う上での品性ないしマナーということができるかもしれない。」とあります。
高校野球の開会式では「スポーツマンシップにのっとり正々堂々と戦うことを誓います」なんて言ったりしますね。私は学生時代バスケットボールをやっていました。当然試合では正々堂々と戦います。しかし勝ち負けにこだわらないスポーツなんて想像がつきません。シュートをしないふりしてシュートする。右に行くと見せかけて左に行く、相手をだまして出し抜くことによって得点を増やし失点を少なくする。所詮スポーツはだましあいです。間違いなく目的は相手に勝つことです。相手がシュートをしやすくなるようにしていたらスポーツにはなりません。
私にとってスポーツが面白いのは、とことん相手をだまし、打ち負かしても褒められることがあってもけなされることがないからです。これは実際の社会生活では許されません。スポーツにはその試合の時間にだけ適用される絶対的なルールがありそれを判定する絶対的な権限を持つ審判が居るのです。お互いが勝とうとしない試合を見せられることほど不愉快なことはありません。バトミントンの試合で勝とうとしない試合をしたとして中国、韓国などのチームが失格になりました。バトミントンには真剣に勝負しなければいけないというルールがあるそうです。世界選手権の時のなでしこジャパンは美しかった。今のなでしこジャパンは美しくない。それはゲームをひとつづつ真剣にするのではなくオリンピックを金メダル取りのゲームにしてしまったからです。
ある政党の党首選の後、選挙が終わったらノーサイドにしましょうといった人がいます。ノーサイドとはラグビーの試合終了のことを表わす言葉です。反対のサイドに分かれて戦うけれど、試合が終われば敵味方はない《だましあいをする関係から友好的な関係に戻る》という意味です。私たちには社会生活を送るうえで守らなくてはならないルールがあります。法治国家ではそれが法律であり、その法律を作るのが国会の役割です。法律はスポーツのルールほど絶対的ではなく、私たちの生活の中には法律の番人としての審判はいません。ルールを守りさえすればどんなだましあいをしても許されるスポーツとは全く違います。(もっともロードレースのように審判が絶対的でないとだましあいには制限が付き一般社会の常識が適用されることになるわけです)法律がいかに不完全なものかを知っているのはそれを作っている国会議員に他なりません。政治をスポーツと混同するような国会議員であれば、「法律に違反していないのに何が悪い」という考え方になっても不思議はありませんね。
スポーツマンシップとは、ルールが明確で勝負すべき時には手を抜かずに勝負し、ルールが不明瞭で抜け道があるときには善意と思いやりを持って、弱い者いじめをしない、そんなけじめがつけられることなのだと思っています。